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北海道に生まれた片岡球子は、画家になることを決意して上京し、21歳から現・横浜市立大岡小学校に勤めていました。この作品に描かれている韓服ハンボクの少女は、学校の教え子をモデルにしたといいます。日本が朝鮮半島を占領していた時代、半島から渡ってきた人々は、横浜市にも多く居住していました。ぶどう棚の下の4人は、それぞれ浴衣ゆかたとチマ(スカート)チョゴリ(上衣)を着ています。片岡の人物画では、衣服の色や模様が作品の重要な構成要素のひとつになっていて、ここでも、それぞれの民族衣装への関心がうかがえます。この作品は、画業と並行し、50歳になるまで教師として勤め上げた地・横浜へ、作家の遺志により寄贈されました。 (日比野民蓉)
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北海道に生まれた片岡球子は、画家になることを決意して上京し、21歳から現・横浜市立大岡小学校に勤めていました。この作品に描かれている韓服の少女は、学校の教え子をモデルにしたといいます。日本が朝鮮半島を占領していた時代、半島から渡ってきた人々は、横浜市にも多く居住していました。ぶどう棚の下の4人は、それぞれ浴衣とチマ(スカート)チョゴリ(上衣)を着ています。片岡の人物画では、衣服の色や模様が作品の重要な構成要素のひとつになっていて、ここでも、それぞれの民族衣装への関心がうかがえます。この作品は、画業と並行し、50歳になるまで教師として勤め上げた地・横浜へ、作家の遺志により寄贈されました。
(日比野民蓉)